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ダンマ厭離

この世は苦しみだと理解したとき、つかむ心が静まり、ダンマを学ぶ道が開かれることです。

厭離(えんり)とは、この世は苦しみだと理解したときに、ものごとをつかもうとする心が静まり、ダンマを学ぶ方へと心が転じることです。

苦しみが分かると、学びが始まる

四聖諦は、苦しみがあることから説き始めます。生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと。好きなものと別れ、嫌いなものと出会い、望むものが手に入らないこと。これらは四苦八苦として数えられます。

ここでいうは、痛いことや悲しい出来事だけではありません。どれほどつかんでいても、思いどおりには留まってくれないことです。このことが分かると、人は「では、何が苦しみを生み、どうすれば静まるのか」と尋ね始めます。四聖諦が、原因、消滅、その道へと続いていくのは、このためです。苦しみを理解することは、悲観で終わるのではなく、学びの入口になるのです。

厭離とは何か

三相を見ていくと、楽しいものにも、「続いてほしい」という求めがついて回っていることが分かります。この求めがです。渇愛が苦しみを生み続けていると見えたとき、心は、つかんでも満たされないものから手を放していきます。

体と心を五つの集まりに分けて見ても、同じことが起きます。形あるもの、感じ、見分け、心の動き、知る働きのどれもが、移ろい、思いどおりにならず、「私」ではありません。そう見た人の心は、その一つひとつから離れていきます。離れた心では、つかむ力そのものが静まり、安らぎへ向かうと説かれます。

このように、つかむ力が静まる方へ心が転じることを、厭離といいます。対象が嫌いになることではありません。対象を「私のもの」として握り続ける力が、によってほどけることです。

世の中が嫌になることとは違う

厭離は、世の中が嫌になり、人と関わることをやめることではありません。嫌ったり、怒ったり、投げ出したりする心は、それ自体が苦しみを強めます。厭離が向かう先は、執着を離れたあとの安らぎです。

体と心を「私」「私のもの」としてつかむかぎり、苦しみは続きます。つかんでいるものを五蘊に分けて見ていくと、それがどれも移ろいゆく働きにすぎないと分かります。つかむ力が尽きれば、の安らぎに至ると説かれます。

道が開かれる

厭離が起きると、学びは具体的な実践になります。正しい見方に始まり、言葉、行い、暮らし、努力、気づき、心の落ち着きへと進んでいく道が八正道です。

この世は苦しみだと理解したときに、ダンマを学ぶ道が開かれます。厭離は、その入口で起きる、執着が静まる方への心の転換です。