物語お釈迦様の生涯
お釈迦様が生まれる前のインドから、誕生と出家、悟りと初転法輪、入滅と教えが残るまでを、事実と伝承と学説を分けて順にたどります。
この文章は、(お釈迦様)の生涯を、生まれる前のインドから入滅の直後まで、時の順にたどります。生没年は研究によって大きく異なり、伝統的な数え方ではさらに古くなることが多いため、ここでは年を一つに定めません。人々の移動の規模などについても諸説があるので、無理に一つにまとめず、意見の分かれるところはそのまま示します。弟子たちの話は十大弟子にまとめています。
お釈迦様が生まれる前のインド
座った姿の印章
インドの西北、大きな川の流域には、紀元前三千年紀から二千年紀にかけて、都市をもつ文明がありました。その年代の幅は、研究によって異なります。モヘンジョダロやハラッパーなどの遺跡から、印章やレリーフが見つかっています。刻まれた文字は、まだ解読されていません。
そのなかに、座った人の姿と、まわりの動物を刻んだ有名な印章があります。いわゆる「獣の王」の印章です。これを、のちの時代の瞑想や神の姿の先駆けと読む研究者がいます。座った姿勢を、心を静める姿だとする見方です。
ただし、これは絵の解釈にすぎません。文字が解読されていない以上、何を表しているかは絵だけでは決められません。姿勢の読み方にも、神と見るか別のものと見るかにも、異論があります。瞑想の起源をこの印章に求めることはできません。確かだと言えるのは、座った姿を刻んだ人がいた、ということまでです。
南の言葉と、北からの移動
今日、インドの南を中心に話されている言葉の仲間を、ドラヴィダ系の言語と呼びます。これは人種の名前ではなく、言葉のまとまりの名前です。インダスの都市の人々が、この仲間の言葉を話していた、とする仮説があります。反対する見方もあります。文字が解読されないかぎり、仮説の域を出ません。
その後、北西の方から、インド・アーリヤ系と呼ばれる言葉が広がっていきます。のちに、祭式の古い詩(ヴェーダ)を伝えることになる言葉です。この広がりを、十九世紀には大規模な征服や侵入として描くことが多くありました。現在では、人の移動はもっと小規模で、言葉と祭りの習慣が徐々に混ざり合っていった、とする説明が有力です。それでも、移動がどのくらい大きかったか、もとから住んでいた人々とどう関わったかは、今も意見が分かれています。遺跡の調査、言葉の比較、人の出自を調べる研究がそれぞれ別の手がかりを示していて、一つの筋書きにはまとまっていません。
祭りの宗教
この言葉とともに伝わった宗教を、バラモン教と呼びます。中心は、神々への祭式です。祭式をつかさどる人をバラモンといいます。祈りと供え物によって世界の秩序を保つ、という考えが軸にありました。
人を四つの身分に分ける考えも、この伝統の文章に現れます。ただし、それが当時の社会の実態をそのまま写しているかどうかは、別の問題です。のちにブッダは、生まれによって人の値打ちが決まるという主張に対して、行いによって決まると説きます。経は、その対話の相手としてバラモンたちを描いています。
自己を問う教え
祭式の伝統の後期に、ウパニシャッドと呼ばれる文章の集まりがあります。そこでは祭式そのものよりも、「私とは何か」「死んだあと何が残るのか」を問うことに重きが移っていきます。個々の文章がブッダより前か、同時代か、後かは、研究者のあいだで意見が分かれます。ブッダがその文章を読んでいた、と決める証拠はありません。
そのなかで、ヤージュニャヴァルキヤは、手に取れるもののどれでもない自己を語った人として伝えられます。「これではない、あれではない」と、当てはまるものを一つずつ外していく語り方です。
ブッダの教えは、体と心の五つの集まりのどこにも、変わらない自己はない、という方向をとります。同じ時代の問いに別の答えを出したもの、と見る人もいます。五つの集まりは五蘊で読めます。
誕生と出家
生まれたと伝えられる場所
お釈迦様は、釈迦族のゴータマ家の子として、ルンビニーで生まれたと伝えられます。経は、父をスッドーダナ王、母をマーヤー、都をカピラヴァットゥと伝えます。出家前の名をシッダッタとするのは、のちの伝承です。経そのものは、しばしばゴータマという氏族の名で呼んでいます。
紀元前三世紀のアショーカ王の石柱は、ルンビニーをお釈迦様の生まれた場所として記しています。これは、王の時代にはそう伝えられていたことの証拠ですが、誕生にまつわる詳しい物語までを証明するものではありません。
経は、誕生のときの不思議な出来事も語ります。生まれてすぐ地に立ち、北を向いて七歩歩み、自分は世界で最上の者であり、これが最後の生であると宣言した、という話もそのなかにあります。これは信仰の物語であり、歴史上の出来事として確かめることはできません。
老いた人、病む人、死者、出家者の姿を見て出家を決意する場面(四門出遊)は、経では過去のブッダ、ヴィパッシーの話として語られます。のちの伝記は、これをお釈迦様の話として描きます。経がお釈迦様自身の言葉として語る出家は、次のとおりです。
出家
経によれば、お釈迦様はまだ若く、髪も黒々とした青年期に、父母が涙を流して引き止めるのもかまわず、髪とひげを剃り、黄褐色の衣をまとって、家を出て家なき暮らしに入りました。出家の前に子のラーフラがいたことは、経と律が伝えます。ラーフラの母の呼び名は伝承によって異なるため、ここでは一つに定めません。
求めていたのは、生まれ、老い、病み、死ぬことの向こうにある、揺れない安らぎでした。
アーラーラ・カーラーマ
最初に師事したのは、アーラーラ・カーラーマです。経は、彼が教えた境地を無所有処だと伝えます。「何もない」というだけが残る、静かな瞑想です。想は、見たものを「これだ」と見分ける心の働きです。
お釈迦様は、その教えをまもなく身につけ、自らその境地に達しました。アーラーラは、弟子であるお釈迦様を自分と同等の位に置き、二人で仲間を導こうと勧めました。
しかしお釈迦様は、そこを離れます。その教えは、執着を離れ、静まり、目覚めてに至ることへは導かず、無所有処に生まれるところまでしか届かない、と見たからです。どれほど高い安らぎであっても、生まれ変わりの輪の中にとどまる、ということです。
ウッダカ・ラーマプッタ
次に訪ねたのは、ウッダカ・ラーマプッタです。経の語り方は、アーラーラのときと少し違います。非想非非想処、つまり想があるとも、想がないとも言えない境地を、自ら知って説いていたのはウッダカではなく、その師のラーマだと語られます。ウッダカは、ラーマと同じところまで達したお釈迦様に、師の席を譲り、仲間を導くよう勧めました。
離れた理由は、アーラーラのときと同じです。その境地も、非想非非想処に生まれるところまでしか導かない、と見たからです。
そのあとお釈迦様は、マガダの国を巡り歩き、ウルヴェーラーのセーナー村に着きます。そこには気持ちのよい土地と林があり、ネーランジャラー川が澄んで流れていました。ここは修行に励むのにふさわしい、と考えて座った、と経は伝えます。悟りの夜については、次の「悟りと初転法輪」の節で述べます。想を含む五つの集まりは五蘊で読めます。
悟りと初転法輪
苦行を離れる
二人の師のもとを離れたあと、お釈迦様は、食を極度に減らし、息を止め、体を痛めつける修行を試した、と経は伝えます。体は衰えましたが、それでもは終わりませんでした。
あるときお釈迦様は、子どものころ、父が畑仕事をしていた日に、ジャンブ(フトモモ)の木の涼しい陰に座り、感覚の楽しみから離れて、最初の静かな瞑想に入ったことを思い出しました。これこそが目覚めへの道ではないか。感覚の楽しみとは別のその安らぎを、恐れる必要はない。そう考えて、ふたたび固形の食べ物をとるようになります。ともに苦行していた五人は、努力を捨てたと見て、離れました。のちの伝記が描く、乳粥を差し出す女性の話は、この経の筋にはありません。
悟りの夜
心が静まり澄んだその夜のことを、経は三つの知として語ります。まず、過去の自分の生を、一つまた一つと思い出しました。次に、生きものが行いによって死んでは生まれ変わるありさまを見ました。行いとその結果の働きはと呼ばれ、カルマと輪廻転生で読めます。最後に、心を汚すものが尽き、もう揺るがないことを知りました。これ以上、生を受けることはない、と。
こうして、生まれることも老いることもないに至った、と経は語ります。律は、その場所を、ネーランジャラー川のほとりの菩提樹の根もとと伝えます。のちの伝記は、悟りの直前の、魔の軍勢との戦いを大きく描きます。経にも魔の軍勢の話はありますが、そこでは欲や不満や眠気といった心の働きを、軍勢にたとえて語ります。経が自ら語る悟りの中心は、三つの知です。
鹿の園の五人
悟りのあと、お釈迦様は、この真理は深く、欲に染まった人々には理解しがたいと考え、説くことをためらいました。梵天サハンパティが、世に教えを説いてほしいと願い出ます。お釈迦様は、心の目の曇りが少ない人々もいると見て、説くことを決めた、と経と律は伝えます。
最初に説く相手として思い浮かべた二人の師は、すでに世を去っていました。そこでお釈迦様は、バーラーナシーのイシパタナ、鹿の園へ向かいました。日本では、この場所を鹿野苑と呼びます。そこに、苦行のあいだそばにいた五人の修行者がいました。律は、その名をコーンダンニャ、ヴァッパ、バッディヤ、マハーナーマ、アッサジと伝えます。五人は、近づいてくるお釈迦様を敬わないと申し合わせていましたが、実際に近づかれると、その申し合わせを守れませんでした。
そこで説かれたのが、最初の教えです。感覚の楽しみにふけることと、自らを苦しめ続けること。この二つの極端を離れた中道として、八つの正しい実践を説きました。あわせて、苦しみと、その原因と、その終わりと、そこへ向かう道という、四つの聖なる真理を説きました。説いているあいだに、コーンダンニャの心に、汚れを離れた見る力が開きました。生じたものは、必ず滅する、と。お釈迦様は「コーンダンニャは理解した」と二度くり返して声に出し、そこから「知ったコーンダンニャ」という呼び名が付きました。経はそう伝えます。五人はやがてみな出家して比丘となり、最初のが生まれました。
四つの真理は四聖諦、八つの道は八正道にまとめています。最初の説法そのものは、初転法輪経で読めます。
入滅
最後の旅
経は、お釈迦様が八十歳であったと伝えます。生没年は研究によって異なり、伝統的な数え方とも一致しないので、ここでは年を一つに定めません。八十歳という年齢は、経自身が語っているものです。
最後の旅の途中、ベールヴァ村で雨期を過ごしたとき、お釈迦様は重い病にかかり、それに耐えて回復しました。そのときアーナンダに、自分を島(よりどころ)とし、を島として、ほかのものをよりどころとせずに住むように、と告げます。「島」と訳される語は「灯明」とも解されますが、どちらも頼りにするものという意味です。よりどころについては三帰依でも読めます。
旅はさらに続き、パーヴァーの村で、鍛冶工の子チュンダが食事を供えました。経はその料理を、ある一つの名で呼んでいます。その名を肉の料理と読むか、植物の料理と読むかは、古くから意見が分かれています。ここでは、料理の中身を一つに定めません。食事のあと、お釈迦様は重い病にかかりながらも、旅を続けました。
向かった先は、クシナーラーです。マッラ族のサーラの林で、二本並んだサーラの木のあいだに床を敷かせ、北へ頭を向け、右脇を下にして横たわりました。経は、季節外れにもかかわらず木々が花を咲かせた、と語ります。これも信仰の物語として読む箇所です。
最後の言葉
そばに仕えていたアーナンダは、まだ学びの途中のまま師が世を去ることを嘆いて泣きました。お釈迦様は、愛しいものとはいつか別れると前から説いてきたと慰め、長いあいだ、慈しみのこもった身と口と心の行いで仕えてくれたことを認めました。そして、自分が去ったあとは、説いてきた教えと戒律が、あなたたちの師となる、と告げます。
比丘たちへの最後の言葉は、「形づくられたものは壊れていく性質のものである。怠らず努めなさい」という趣旨でした。そのあとお釈迦様は、瞑想の段階を順に深めては戻り、最後に第四の静かな瞑想から出て、世を去りました。その途中でアーナンダが、もう世を去られたと思い違いをした場面については、十大弟子の阿那律の項で紹介しています。
教えが残る
律は、入滅のあとラージャガハで、マハーカッサパが五百人の比丘を集め、問いによって教えを確かめた、と伝えます。戒律はウパーリが、教えはアーナンダが答えました。この集まりを、どこまで当時の記録と見るかは、研究者のあいだで意見が分かれます。ここでは、律が伝える筋として紹介しています。
その後の仏教は、土地と時代によって形を変えながら広がっていきます。この文章では、お釈迦様が現れる前のインドから入滅の直後までを扱いました。お釈迦様を支えた弟子たちの話は、十大弟子で読めます。